アルカジイ&ボリス・ストルガツキイ『ストーカー』

「ピクニックだよ。こんなふうに想像してみたまえ──森、田舎道、草っ原。車が田舎道から草っ原へ走り下りる。車から若い男女が降りてきて、酒瓶や食料の入った 籠、トランジスタラジオ、カメラを車からおろす……テントが張られ、キャンプファイアが赤々と燃え、音楽が流れる。だが朝がくると去っていく。一晩中まんじりともせず恐怖で 戦きながら目の前で起こっていることを眺めていた獣や鳥や昆虫たちが隠れ家から這いだしてくる。で、そこで何を見るだろう? 草の上にオイルが溜まり、ガソリンがこぼれている。役にたたなくなった点火プラグやオイルフィルタが放り投げてある。(中略)」
「わかりますよ。道端のキャンプですね」
「まさにそのとおりだ。どこか宇宙の道端でやるキャンプ、 路傍のピクニック というわけだ。きみは、連中が戻ってくるかどうか知りたがっている」

1972年発表のロシア発SF小説。原題の訳は英語では「Roadside Picnic」、日本語では「路傍のピクニック」だが、アンドレイ・タルコフスキーの1979年の映画タイトルに基づいて邦題は「ストーカー」となっている。

ファーストコンタクトテーマの古典的名作であり、人気オープンワールドゲーム「S.T.A.L.K.E.R.」や、アニメ化もした小説「裏世界ピクニック」(記事)等の元ネタとなった。

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作品紹介

何が起こるかだれにも予測できない謎の地帯、ゾーン--それこそ、地球に来訪し地球人と接触することなく去っていった異星の超文明が残した痕跡である。ゾーンの謎を探るべく、ただちに国際地球外文化研究所が設立され、その管理と研究が始められた。だが警戒厳重なゾーンに不法侵入し、異星文明が残していったさまざまな物品を命がけで持ちだす者たち、ストーカーが現われた。そのストーカーの一人、レドリック・シュハルトが案内するゾーンの実体とは? 異星の超文明が来訪したその目的とは? ロシアSFの巨匠が描くファースト・コンタクト・テーマの傑作 - 早川書房

前置き

冒頭でも書いたとおり、人気FPSゲームの「S.T.A.L.K.E.R.」シリーズは本作のオマージュ作品となる。4作目となる新作の「S.T.A.L.K.E.R. 2: Heart of Chornobyl」がとうとう2024年11月21日にリリースされたのをきっかけに読んだ。既読作品で今回はkindleで読んだが、文庫本だと280ページくらいしかない短い作品である。

なおアンドレイ・タルコフスキーの映画はモスフィルムのYouTube公式チャンネルに複数アップロードされており、本作の映画版「ストーカー」も日本語字幕有りで見ることが出来る。下の動画がそれだが2時間35分もあるので、興味のある方は適当にURLコピーするなりして見てほしい。(余談だが、英語で検索すると、Mosfilm英語版公式アップロードが見つかるのだが、こっちは字幕がロシア語しか無い。なんで世界語である英語のほうが不便な作りなんだろうか)

感想

内容をすっかり忘れているのだが、なんか事前の予想と違う大分違う話である。地球外からやってきて去って行った「来訪者」たちによって超自然的な現象が頻発する未知の危険区域となった「ゾーン」、そこに置き去りとなった彼らの忘れ物は莫大な富を産む宝であり、それを狩りに行く「ストーカー」たちの物語──とくれば、主人公らがゾーンに入ってアクションする話を期待しようものである。実際、主人公レドリック視点で書かれるプロローグ的な話がまさしく世界観を解説するチュートリアルのような話で、ならこういうことをやっていくんだなと思いきや、それ以降全然ゾーンに入らない。

7割くらいに差し掛かってワレンチンとリチャード・ヌーナンの、来訪者についての会話が有るのだが、ここでようやくああSFしているなという雰囲気に。タイトルの「路傍のピクニック」はここでの(記事冒頭で引用した)ワレンチンの台詞に由来している。ワレンチンは大分脇役なのだが、こうしてみると「寄生獣」の広川みたいな奴だな。

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思えば本作はスタニスワフ・レムが地球外の知性を書いた作品として評価している数少ない作品だったはず。たしか「地球外の知性を人間の理解の範囲に及ぶ生き物として書くなんてナンセンスだ」という感じの評価で、知ったとき「まさしく『ソラリス』作者の考え方だな」と思ったものだが、当たらずも遠からずなことをこの辺で話している。両方共産圏で産まれてタルコフスキーが『ソラリス』と『ストーカー』の両方とも映画化しているのもどこか共通するものを感じるな。

kindleで読んでいると他の人たちが多くハイライトした部分が分かるようになっているのだが、SFファン諸氏もこの辺で「おおっ」となったんだろうなぁ、というのが丸わかりとなる。最初のゾーンのシーン終わってからこのシーンまで「これそんなに大事な話か……?」って状況続くもんな。

さてそう思っていると8割くらいに入ったあたりでシュハルトとバーブリッジの息子アーサーでゾーンに入り、目的だった「願いを叶えてくれる金の玉」を発見するが……となって終了する。観念的というか多義的というか、どのようになったかがはっきりとしない終わり方だ。電子書籍端末で次のページにスワイプしたとき、「訳者あとがき」という表題が目に入ったとき「あれっ?終わった!?」ってなった。

なっておいて何だが、この辺がまさしく本作らしい。解説でも書かれているが本作は「何故来訪者達は地球を訪れたのか?」「彼らの遺物はどのような意味を持つのか?」みたいなことが主題ではない。シュハルトの娘のモンキーは「ゾーンの影響で明らかに人外の要素が入った新人類」なのだが、SF的にも作劇的にも非常に美味しい要素を持つこの少女に関して何のエピソードも無いのがこれを最大限に象徴している。訳者あとがきで

作者たちは、その謎を解くことにはまったく関心がないのです。彼らが問題にしているのは、未知なるものに直面したときの人間の心理と行動、そして社会の反応です。

こう述べられているとおり、そういう話じゃないんだな。SF作家のポール・アンダーソンが「SFの本質は自動車の登場を予言することではなく、自動車がある社会には渋滞が発生することを書くことである」みたいなことをなにかで言っていたと思うが、ゾーンとか宇宙人の謎で引っ張る話だったら現在に到るまでの名作にはなっていなかっただろう。しかしそれはそれとして、インターネットのある現代に放送されたら最終回後に「あれって何だったの?」的な炎上しそうだ。

終わりに

予想よりもゾーンに入らない作品だったわけだが、「S.T.A.L.K.E.R.」の制作者たちは「ゾーンの設定がこんな魅力的なのにもったいない!」と考えて作ったんじゃないかな、と思わずにいられない。本作で最終的にシュハルトが見つけた「願いを叶えてくれる金の玉」がモノリスの着想になったんじゃないかなぁ。

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