アンドロイドは電気羊の夢を見るか? – フィリップ・K・ディック

海外SFのフィリップ・K・ディックの代表作の一つで、映画『ブレードランナー』の原作として有名な作品。賞金稼ぎであるリック・デッカードにアンドロイド狩りを通じて起きていく心境の変化を描く。

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第三次大戦後、放射能灰に汚された地球では生きた動物を持っているかどうかが地位の象徴になっていた。人工の電気羊しかもっていないリックは、そこで火星から逃亡した〈奴隷〉アンドロイド八人の首にかかった賞金を狙って、決死の狩りをはじめた! - Hayakawa Online

既読作品であるが、この作品を原作とした映画『ブレードランナー』の続編である『ブレードランナー2049』(記事)の放映に際して復習で読んだ。

映画版であるブレードランナーでは「リック・デッカードが人間ではなくレプリカント(余談だがこのレプリカントという単語は映画オリジナルのもので原作では出てこない)なのではないか」という有名な命題が存在するが、原作でもちらっとそういう話が出てくる。

「アンドロイドは、ほかのアンドロイドがどうなろうと気にしないものです。それがわれわれのもとめる指標のひとつでもある」 「では、あなたもアンドロイドですのね」  リックはぎょろりと目をむいて絶句した。 「だって」と彼女はつづけた。「あなたのお仕事はアンドロイドを殺すこと、そうでしょう? あなたは、えーと、なんていったかしら──」思いだそうとしているようだ。 「賞金かせぎ。だが、おれはアンドロイドじゃない」

ただ一応というか出てくる場面はアンドロイドが「そういうことならあんたアンドロイドなんじゃないの?」って言ってくる場面だけなので、アンドロイドの奇妙な習性描写の一端として書かれているように見える。実際、少なくとも原作に関してはアンドロイド殺しを通じて起きるデッカードの心理の移り変わりが一番のテーマになっているようなので、デッカードが人間でないと話が成り立たない。

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映画だとSFアクション的な内容だが原作のアンドロイド狩りの描写は凄い淡白で強敵との闘い的な感じは全然無いのでハードボイルド的な部分に焦点をあてているわけでもなさそうだ。前半に近隣の賞金稼ぎのことなら誰でも知っている警察官が自分のことを知らず、自分を送り届けた上司は警察にいない……!という「自分のことを知っている人間がまったくいない世界に迷い込む」かのようなシーンがあり、「うんうんディックらしくなってきた」と思ったら実はそれはアンドロイド達の策略で、仕掛けてきた側の内の一人は自分がアンドロイドであることに気づいていなかったでござるというオチに若干拍子抜け。

訳者あとがきで浅倉久志が『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の文章を引用して「つまり、ディックは、感情移入を人間の最も大切な能力と考えているのです」と書いているが、人間とアンドロイドの違いの最たるものがこの感情移入、あるいは社会性とされているらしい。そして、高度VRみたいな共感(エンパシー)ボックスや、人間とアンドロイドを見分ける感情移入度検査が生きた動物がある種の神聖視をされている社会においてその動物への慈愛を確かめる内容になっていることなどがこの思想に基づいて作中に登場する。

というように色々と意欲作だとは思うのだが自分にはそれほど響かなかった。「感情移入が人間の証である」という考えに個人的にはあんまり共感できないが、「人間にだけ魂があり、それ以外は魂の無い『モノ』に過ぎない」というキリスト教圏の思想を基準に考えれば、そのロジックを横断する本作の内容には意義があるのではないかという気がする。キリスト教といえば、リックが電気仕掛けの偽物の羊を持っていて、生身の黒山羊を購入するがそれは殺されてしまう、っていう部分にも『羊』『(黒)山羊』という象徴的な動物の採用に穿ったものを感じてしまうが意味があるんだろうか?

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